言葉について
虐殺器官やメタルの話を前にブログで書いたので、言葉ついて最近思う事があります。
ぼくが発信した言葉が万人に均等に均一に理解してもらえる事ってあるのかしらって思う訳です。
はじめに言っておくと悲劇の主人公を気取ってる訳ではないです笑
例えば、戦争が起こっていたとして、僕はそれを止めたいから力を貸して欲しいと何らかの手段でもって世界に発信します。勿論、母語である日本語で。
それを例えばアメリカ人で日本語が出来る人が内容を咀嚼して理解する。
この工程をあらゆる言語(文化も)を持つ国々の人がそれぞれに行ってくれたとしたらの話ですけど、日本語の持つニュアンスは失われて、それぞれの国のニュアンスが含まれていくと思います。
その結果、ある国では戦争を止める為に戦争を始めたり、またある国では戦争を止める為にデモをしたり、奇跡的に一斉に世界中の国々があらゆる抑止力を放棄してくれたりするかも知れない。
はじめに言った均等且つ均一にぼくの言葉が万人に理解してもらえるのか、という疑問と不安が何らかの形で解消されればお互いがすれ違う事なく理解し合えるんじゃないかなぁ。そう思うんです。
勿論エゴですけどね笑
そんな事を考えると、
伊藤計劃さんのハーモニー
柴田勝家さんのクロニスタ
等はある種の行き着いた先にある答のように思えてくるんです。
ぼくもそういう作品を書いていきたいと思うのです。