タガタメ
はじめに、某アプリゲームの話ではありません。
世代ではないんですが何故だか知ってる曲です。
Mr.Childrenのタガタメ。被害者加害者になる子供達と絶えぬ戦争。右翼左翼。日本にいると想像しにくい世界の常識と現実を突きつけ、そして自分はどうするべきかを考えさせられる名曲です。
2番の歌詞で、明日もし晴れたら広い公園へ行こう〜何も考えないでいこう、と続くんですがこの後の歌詞がタタカッテタタカッテになるんですよね。
結局この歌の何も考えないで公園に行こうとした人はまた戦争や理不尽な死に対して目を背ける事が出来ず考えてしまう訳です。
違うかも知れないですけど、聴いてるとそんな風に思えて来てしまうんですよねぇ。
子供達を被害者にも加害者にもしない為にぼくができる事は相変わらず性懲りも無く愛す事以外にないとするならば、小説の中で戦争やタガタメに対してのぼくなりの答えを提示しなければなと、強く思うのです。
リゼロ
苦手な異世界系の話ですが、友人のススメによりはまっております。
苦手な物。
小説、漫画、アニメ、ゲーム、映画で死者の視点から物語が描かれる物が苦手です。
え?死んだ人が何言ってるかなんて分からないじゃんと言う子供の様な理由からです。
死人に口なし。死者は語らず。
だからこそ生きていた間にその人達が築き上げた物を大切にしたいと心の底から思います。
主人公絶対主義の危険性
このブログでの主人公絶対主義の定義は主人公が正しくて主人公から見て悪い事をする奴が敵。という考え方としましょう。
悟空から見たらフリーザは敵。
キャプテン・アメリカから見たらレッドスカルは敵。
ルークスカイウォーカーから見たらダースベイダーは敵?
アイアンマンから見たらシビルウォー突入時のキャプテン・アメリカは敵?
疑問が浮かびますよね。ぼくは正義と悪の境界線ってどこにあるのかなーって思う事が多々あります。
度々登場しますが、メタルギアソリッドではこの主人公絶対主義が大きく作用しています。
主人公はシリーズ通してスネークと言う名前を冠しています。
スネークが祖国アメリカを守るべく戦場を駆け抜けていく物語《サーガ》です。
多くのシリーズがスネークの敵対する組織が完全な敵でした。核を撃つ為の兵器メタルギアを使って世界を混沌に陥れようとする連中にたった一人で(たまに二人とか一人と一匹とか複数人とかにもなります)立ち向かっていく男らしさに痺れます。
スネークと言う英雄はファンからしたらとても崇高な存在でした。それが少しだけ揺らいだのはメタルの生みの親、小島秀夫監督が最期に手掛けたメタルギアソリッドV。
この作品からは復讐というワードは切っても切り離せません。
メタルギアソリッドVの前のシリーズでは祖国を信じて戦って来た伝説の男がかつての仲間とのすれ違いにより一人で組織を一から作り直し、かつての仲間達や愛した祖国と対等に渡り合う為に核兵器を保有します。
当時学生だったぼくにはとても自然な流れでした。
「スネーク達は正しい。あいつらは間違ってる。危険だ。世界の為にスネークは核を持つしかないんだ」と。
正に主人公絶対主義です。
さて、ここからがVの話(長くなってしまいましたね……)スネークの基地は大きくなっていきます。ある時、組織の仲間が捕虜になります。ヘリで基地へ帰還。これまでスネーク達が作り上げて来た基地は半壊し、崩れゆく基地の上では銃弾が飛び交い、仲間が倒れていきます。数人の仲間をヘリに乗せ、一息ついたと思ったら、助けた捕虜の腹の中に爆弾が仕掛けられていて、スネーク達は爆発に巻き込まれます。
基地や仲間、そして自身の片足片腕を喪い頭部に突き刺さった破片は脳にまで達しているという始末。そこから復讐の鬼となります。
簡単に言うと、これまでのシリーズで敵がしていた事を平気でします。
違和感ばかりが募り、展開していくストーリーに翻弄されながらやがて気づくのはスネーク達は社会的に敵になってしまったんだという点でした。
正義のヒーローだと信じてやまなかった男が、祖国に巣食う悪と対峙する為に力をつけていった結果が社会的な悪に堕ちていく事になるとは……
必ずしも主人公が絶対的に正しいとは限らないという視点をメタルから教わった気がします。
思えば大体のことをメタルから学び血肉にして来たと思います。色々ありましたが、小島秀夫監督の新作を早くプレイしたいです。ドキドキワクワクしつつ、また多くの事を学び、自分の今後の活動に活かしたい。そう思うのです。
ファミチキ
貰いに行ってきます
言葉について
虐殺器官やメタルの話を前にブログで書いたので、言葉ついて最近思う事があります。
ぼくが発信した言葉が万人に均等に均一に理解してもらえる事ってあるのかしらって思う訳です。
はじめに言っておくと悲劇の主人公を気取ってる訳ではないです笑
例えば、戦争が起こっていたとして、僕はそれを止めたいから力を貸して欲しいと何らかの手段でもって世界に発信します。勿論、母語である日本語で。
それを例えばアメリカ人で日本語が出来る人が内容を咀嚼して理解する。
この工程をあらゆる言語(文化も)を持つ国々の人がそれぞれに行ってくれたとしたらの話ですけど、日本語の持つニュアンスは失われて、それぞれの国のニュアンスが含まれていくと思います。
その結果、ある国では戦争を止める為に戦争を始めたり、またある国では戦争を止める為にデモをしたり、奇跡的に一斉に世界中の国々があらゆる抑止力を放棄してくれたりするかも知れない。
はじめに言った均等且つ均一にぼくの言葉が万人に理解してもらえるのか、という疑問と不安が何らかの形で解消されればお互いがすれ違う事なく理解し合えるんじゃないかなぁ。そう思うんです。
勿論エゴですけどね笑
そんな事を考えると、
伊藤計劃さんのハーモニー
柴田勝家さんのクロニスタ
等はある種の行き着いた先にある答のように思えてくるんです。
ぼくもそういう作品を書いていきたいと思うのです。
洋画 BOY Aとアンドリューガーフィールド
アメイジングスパイダーマンで女性の心臓を鷲掴みにした俳優、アンドリューガーフィールドを皆さんご存知でしょうか?恐らく知ってる人の方が多い筈です。そう願いたい。
ぼくが彼に出会った作品はアメスパではなく、今回のブログのタイトルにある「BOY A」でもなく「わたしを離さないで」でした。あの作品は本当に救いがないというか、何というか……ぼく個人の意見ですが映画で好きなのは考察が出来るものです。
全部まるっと分かりきってしまう作品も観てスッキリするんですけど、あのシーンのアレはこういう意図があるんじゃないか?なんて考えながら観ていって最後に裏切られたりするともう堪りません(笑)
複製された男、ボーダーラインなんかが最近ではお気に入りです。
少し話がずれましたが、そういうわけでぼくは考察や答えが観ている側に委ねられる作品が好きなんです。
「BOY A」もそうで、幼少期に殺人を犯した少年が時を経て当時と名前も素性も変えて更生していこうとする物語なんです。罪と罰的な話ですね。
仕事も慣れてきて、ガールフレンドもできて、良いことが続いていく主人公に不幸が訪れます。過去の過ちが明るみに出て、せっかく築き上げていた信頼全てを失い最期はガールフレンドと訪れた遊園地側の水辺を見下ろして終わります。
是非、繊細で魂剥き出しなアンドリューガーフィールドのお芝居に心を上に下に揺さぶられてからアメスパを観て欲しいです